こんにちは、事務局です。
石橋湛山、「いしばし たんざん」と読みます。明治生まれ、昭和の時代の政治家です。1956年(昭和31年)に第55代内閣総理大臣となるのですが、その在任期間はたった65日、日本の憲政史上でも4番目の短さです。
石橋湛山は、政治家になる前は、東京経済新報社のジャーナリストでした。1921年、第一次世界大戦の後、日本が帝国主義を掲げていた時代に、植民地政策を真っ向から批判。台湾・朝鮮・樺太などの植民地を放棄し、中国やシベリアへの干渉をやめるよう主張する「小日本主義」を唱えました。そのため、同誌は政府から常に監視対象にされ、インクや紙の配給を制限されたりしました。
石橋湛山の主張は、長い目で見れば帝国主義は成功しない。国際協調と市場経済(マーケットメカニズム)とを通じた長期的利益を追及すべき、というものでした、しかし、この主張は受け入れられず、日本は戦争へと突入していきます。
戦後、石橋湛山は政治家となり、大蔵大臣や通産大臣などを歴任するのですが、GHQによる公職追放を受けたこともありました。総理大臣となった直後、風邪をこじらせて肺炎に罹り、2ヶ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けます。2ヶ月療養すれば復帰できるのに、「予算員会にも出られない首相などありえない。私は、私の政治的良心に従う」と言って潔く首相を退任するのです。石橋湛山の退任後、首相に就いたのは、故・安倍総理の祖父、岸信介でした。
歴史に「もし」はありませんが、石橋政権が続いていたなら、今の日本は少し違った形になっていたかも知れません。今も再評価され続けている石橋湛山、ぜひ読んでみてください。